長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に登録された理由とは

17世紀から19世紀にかけての長い間、キリスト教禁教政策の中で、ひそかに信仰を伝え続けてきた人々の歴史を現在に伝える他に類を見ない遺産が、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」です。

今回は、この世界遺産についての歴史や魅力、そして世界遺産に登録された理由をまとめていきます。

★長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産についての歴史と魅力

長崎と天草地方のキリシタンたちが「潜伏」したきっかけや、彼らが行ったさまざまな試みなどの歴史を見てみましょう。

大勢のキリシタンたちがどんどん摘発されていく中で、彼らはどう行動し、努力していたかを知れば、この世界遺産をより一層魅力的に感じることができるはずです。

・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の歴史①キリシタン潜伏のきっかけ

1549年、あの有名なフランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝わりました。そして、ザビエルに続いて渡来してきた宣教師たちにより日本中に幅広くキリスト教が広まりました。

しかし、豊臣秀吉のバテレン追放令に続き、江戸幕府でも禁教令がしかれます。すべての教会や堂が破壊され、宣教師たちは国外に追い出されてしまいました。

禁教がますます深まっていく中、キリシタンたちが「島原・天草一揆」を起こします。それを受けた江戸幕府は宣教師が潜伏している可能性を否定できないポルトガル船を追放し、鎖国を行ったのです。

1644年には、かろうじて残っていた最後の宣教師が殉教しました。

残されたキリシタンたちは共同体を維持しつつ潜伏して信仰を続けます。しかし、17世紀後半には大規模なキリシタン摘発事件が起こり、大勢の潜伏キリシタンたちが殉教しました。

・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の歴史②彼らの試み

日本各地に点在していたキリシタンの集落が途絶えていく中、キリスト教が最も重点的に広められた長崎と天草では18世紀以降もひそかに共同体が維持されていました。潜伏しながら信仰する術を独自に探っていたのです。

その結果、山や島、神聖な絵画、神社等の独自に信仰する対象を拝むという身近な方法で行われるようになりました。

★長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に登録された理由について

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産についての歴史をまとめてきましたが、次に世界遺産に登録された理由について見ていきましょう。

大規模に摘発が行われていたことや、潜伏していないと信仰が続けられなかったというネガティブな証拠ともなるこの資産がどうして世界遺産に登録されたのか。そして、世界的にどんな評価を受けているのでしょうか。

・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に登録された理由とその評価

17世紀から2世紀以上の長い間、キリスト教禁教政策の中でひそかに信仰を続けた潜伏キリシタンたちによって独特な宗教的な伝統が育まれたことを物語る証拠として評価され、世界遺産に登録されました。

もともとは「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」としての登録を目指していましたが、ユネスコの諮問機関から指摘があり、それは叶いませんでした。

その指摘とは、「禁教時代に焦点を当てるべきだ」ということ。教会堂を中心に構成していた「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」は見直されることになります。

その結果、「潜伏キリシタンの育んだ独特な宗教的伝統」が評価され、その物的証拠として現在の潜伏キリシタンの隠れ住んだ集落が中心の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が正式に世界遺産に登録されることになったのです。

このことから、その周囲に建立された教会堂は、禁教の解禁後に建てられたものとして、世界遺産には含まれていません。

★まとめ

いかがでしたか。長崎と天草地方のキリシタンが隠れ住んだ集落を中心とした世界遺産ですが、そこには潜伏キリシタンたちの涙ぐましい努力の証拠が残されています。

今でこそ、日本は自由宗教となりましたが、古い時代には信仰する宗教さえも禁止されていたかと思うと、当時の信者たちは絶望さえ感じたのではないかと心が痛みます。

この知識を持ったうえで訪れれば、より一層その世界遺産の魅力とキリシタンたちの努力を肌で感じ、感動すること間違いなしです。



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